2008年に公開
そのエリアは、外界からは良く見える。音も声も聞こえる。
ただし、内側からは外の様子はまったく見えない。愉しい事が無い。うれしいことも無い。
何を聞いても悲しみを感じない。
何を言われても怒りがこみ上げない。
何を見ても心に響かない。気がつけば、そのエリアにいる。
そこには、自分しかいない。誰もいない。
親も兄弟も友人も...
本当の友人なんて、もともと居なかったかも。
そこには、常識や理屈も倫理など無い。
そこは、色も音も季節も朝日が昇ることも無い。
なぜ、ここにいるのかわからない。
ここが、どこなのかもわからない。
周りを見ても誰も居ない。
どうして、生まれてきたんだろう? 色々な事があった。
だけど、もういい。もう、思い出すのはよそう。下を向き、目を閉じ、やがて横臥する。
そして、胎児のように丸まってしまう。このエリアは、なぜか居心地が悪い。もう居られない。
でも、出方がわからない。
このエリアから出るには、死ぬしかないのか。
生きていく意味が、わからないし、
生きていく自信も無いから死んでしまうか。
どうやって、死のうか?
いつ、死のうか?ばかりが頭をよぎる。
死んでしまえば、終わる。どうやって、死のうか?
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こんな風に思うことは、ある一時期に何かをきっかけに、
誰でもありえることじゃないでしょうか?全国の自殺者数統計では、三万人を超える事態が続いているようです。
死に至らないまでも既遂した方、さらに一歩手前にいる方は、
少なからぬ人数になることは予想できます。練炭や硫化水素、入水、首を吊る...どれも相当に苦しいです。
飛び降り、列車飛び込みでも、なかなか即死せず、全身に激痛が続きます。
そして、なにより、行動に一歩踏み出したとき、
人生最大の後悔を、誰もが確実に間違いなく思うことになります。
『あっ、やっぱり、死ぬのはいやだ』と。わたしは、見ず知らずの方であっても、
今まで私に何のかかわりも無かった方であっても、
天命を全うすることなく、逝かれる方に対して、
心からの悲しみを禁じえません。行動に至る理由やきっかけは千差万別だろうと思います。
ご本人にとって深刻に悩まれている事柄を一括りに断定し、
同情し、意見したり、チカラになれるとは思いません。
わたしは、おそらく適格ではありませんし、すべもありません。
ただ、ただ、哀しいだけです。心から哀しいです。